なんか悟りが開けたような気がする。

去年の年末でいろいろ忘れるために反省しました。(これ


この悩みって実は去年とかそういうレベルではなくて、俺の人生において20年間ノイズとして蓄積してきたものの塊です。俺が思っている中身そのまま。これを書いたことは正解だった。まさか書いたことで、いろんな人が新しい見方を俺に教えてくれることとなり、そしてその側面で自分の心にたまったノイズを一つ一つ整理しなおしたときに、俺の考えにとって最後の矛盾点がどこにあるかようやく理解できた。なんつーか悟りが開けた感じ。ありがとう。


一応こう思い込んでしまった現状の冷静な分析結果が間違っていないか、今一度問うためにその整理した内容を書いておくこととする。


俺が20年間いた世界って、今思いかえせばずっと縦社会だった・・・いや、縦社会だと決め付けていた・・が正解だな。スタート時点から自分の思っていた場所と違って非常に居心地が悪く、心の奥ではそうそうに逃げ出したいとずっと思っていたんだけど、「耐えることも人としての修行」と意地になって、自分の存在位置を割り切ってその位置に残ることを選んでしまった。その結果、試練を乗り越えた自分に対して本当に褒められるのは自分だけだという縮図ができてしまい、俺の中の理念として「耐えることは人として当たり前。」「大人であるということは、耐えることだ」というモデルができあがった。


こうなる経緯って、俺以外でも割と頭の固い人間ならなりがちなことではないかなと思う。


自慢するわけではないが、俺は小学生の頃は勉強もできて運動もできた。マラソン・短距離など運動についてほぼ全部含めてクラストップだったし、運動会でも一位以外とった覚えがない。
でも、このことで親や先生から褒められた覚えが一切ない。その代わり、成績が落ちたり、調子が悪くてマラソンで1位がとれなかったときには「今回はどうしたの?調子悪かった?」って先生にはよく言われていた気がする。だから、子供の頃で一番よかったことって何かって言われても何も思い出せないし、ただただ先生から怒られていた記憶しかない。そして、親からは褒められたことも怒られた覚えもない。親父は「うちは自由に育てる方針」とか言っていたことは覚えている。


だから俺の人間社会の基盤って、極めていびつで偏った見方だけが集まってきていたようだ。先生は、俺を叱ったあとにもうテンプレートなのかというくらいお決まりのセリフで「みんなのことを考えて・・・」「人としての道だけははずすな」「相手のことも考えて・・」という言葉で俺を正した。俺は、この他人主体の要求を純粋に自分自身の問題として捉え直して、「世間の常識にあわせてお前が自粛しろ」というモデルをつくりあげていく。このモデルは、自分の行動を抑制すれば自分も怒られないし、みんなも困らない。利害が一致する。これが社会での生き方と俺なりの方程式をつくった。土台として。


世間ではよく優等生は現場では使えないって言われる。このことについてはずっと、「優等生はプライドが高く、すぐ人を見下すし、レベルの低い人間とはなかなか溶け込もうとしない」ことが原因だと思っていた。自分でもこういう人は好きにはなれないと思っていたので、こうならないためには、「プライドよりも結果を優先する」「人のいいところを見つけるようにする。」が正解であると思い、人をある側面だけで判断しないように、決め付けないように慎重に慎重に言葉を選ぶことにしていた。でも、実体はというと・・・仕事とか自分の思いを尺度にして相手に振りかざしてしまって、実がともなっていないなと反省する毎日。そして、この問題を守れない自分に嫌気がしてイライラしてしまい、それがさらに周りにも伝わって泥沼状態。正直周りにそんな姿を伝えても誰も得をしないことは理解していたので、それを隠すために、ただひたすら毎日懺悔をして自分を律することに集中していた。そして懺悔をするたびに、そのノイズを自分が律さなければいけない問題だと心の奥底へしまっていく。この行為が最近では許容量の限界を超えてしまい、何をしていても、どんな楽しいことをしている最中でも、時折箱から飛びだすこのノイズが原因で、一気にネガティブ方向へ気持ちが傾き、結果として鬱として末期状態に。ここが去年の年末。


そして今日、ついにこのネガティブスパイラルの原因がこの土台の考え方にあると気づいた。苦節20年。


俺の抱えている問題を解決するすべは、すべてを忘れてしまうことでも、ポジティブシンキングとして楽観的に考えることでも、人の喜びそうな行動を心がけることでも、他人の嫌がることをしないようにすることでもなかった。見るべきところは、そんな世間が真っ先にいう言葉の中にはなかった。
俺が抱えている問題を解決する方法、それは、自分でも相手でもなく、今目の前に起きている事象そのものについてのみ真剣に向き合って、ただただそれを解決する手段を考えることだった。そして、決して「自分には関係がない、興味がない」と線を引かないことを心がけることにある。
この気持ちを自分の心にもってしまった時点ですでに、「だれだれがやってくれる」、「だれだれとは意見があわない」、「だれだれのせい」、といった負の感情が浮かぶし、押し付けた・押し付けられたという気持ちが発生するし、自分のアウトプットと相手のアウトプットを比較して、それを自分の尺度で評価しようとしてしまう。だが、自分と事象との間に線を引くことさえしなければ、そもそも比較する必要すらなくなる。そうすれば他人がどう動こうが、他人から何を言われようが、お願いしても思い通りに動いてくれない人がいようが、全く無関心な人がいようが、事象そのものを軸としてそれぞれの人と接することができる。
ようは、人と接する場合の絶対的な値は事象そのものであり、自分・他人と接する場合は、この事象を解決することを前提に話せば、他人との摩擦は発生せずに、事象を解決できるということ。そしてこれが本来の意味でのコミュニケーションなんだろう、きっと。


今日はこの考えのもとに、今までとは違って新人君に、俺も理解できていないようなバグの原因調査と対策について任せてみました。俺の心境の変化だけによる勘違いかもしれないが、今までとは違って円滑にコミュニケーションできたような気がしましたし、新人には難題ではないだろうかと思っていた問題についても、結果的には彼はほぼ100%な回答を自分で見つけ出してくれました。これは本当に予想外です。
彼には、今日仕事の帰り際に、俺がこういうことでずっと悩んでいるということを告げ、そして君のおかげで俺の悩み事が解決したよ、ありがとうと言っておきました。俺としてもまさかこんな自然な形でこんな重たい悩み事の話を彼にするとは思わなかったし、ありがとうって言葉を出すとは昨日までは思ってもいなかったが、なんとなく言いたかったので言った。


今日はものすごく心が軽い。いろんなわだかまりが取れた気がする。


[2009/01/10追記]
読み返してみたけど、伝えたかった根幹の部分が一番わかりづらいことに気づいた。だから端的に箇条書きでまとめてみる。

  1. 隣人の嫌な部分を見てその行動を嫌っている自分がいる場合、その嫌いである行動をしてしまわないことを自分の教訓にして歩くことを正しいと思いこんでいることが間違い。そもそも「嫌いだから」という前提条件が自分の価値観で物事の視野を狭めている。
  2. 「世間の常識」「モラル」「ルール」なんていう言葉を会話に混ぜても、その言葉自体に人を動かすだけの絶対的な力なんて存在しない。かざした時点で、守るのが常識という自分の価値観を相手に押し付けている。この言葉はしょせん相手に伝える上での説得力が若干上がる程度。己の言葉で相手に伝えるべき。
  3. 反面教師に学んだことがある場合、結果的には自分は一回り成長したのは事実である。反面教師だからといってその人自身に対して自分と関わらないでくれ、という線を安易に引かない。そのこと自体がすでに反面教師となった人を理解しようとする行為を放棄している。
  4. 隣人に思いを伝えたい場合は、問題となる箇所を素直に伝える。相手が素直に受け入れてくれない場合でも、それは相手のせいではなく、自分の伝え方が悪かったかもしれないと捉え、伝えるにはどうしたらいいかについて考えては伝える。それこそ何度も。そうすれば聞く気がない相手・正しく伝わっていない相手に失望する暇なんてない。
  5. 「問題ではないか」と自分が捉えてグチを言った時点から、それの解決先に真剣に向き合って解決しようとしなかった自分の問題。これが己の弱さと自覚すべきこと。
  6. 「怒られた」「言いがかりをつけられた」と思った場合、その話は本当に理不尽なのか、相手は怒ることで俺に何を伝えたかったのか、それをどうしたら解決することができるのか、それに対してまっすぐ向き合う。そうしたら怒ってる人を嫌ってる暇なんてない。


「自分に厳しく、人には優しく」


よくできた言葉です・・・この言葉の前文・後文は一心同体で、どちらかだけなんてありえない。